2011年8月25日木曜日

宮城県仙台市~亘理町レポート(その1)

宮城県仙台市~亘理町レポート       2011.05.27~28
2011年5月30日
(株)Arch5
小俣光一
 はじめに今回の東日本大震災にて大きな被害あった関係者の方々や、災害に遭われて大変な状況にある方々へ、謹んでおい見舞い申し上げます。
少しでも早い復興をお祈り申し上げます。



  新幹線で東京を出て郡山を過ぎ福島市に差し掛かった辺りから、屋根にブルーシートが貼られた民家がだいぶ増えてきた。RC造の建物もひび割れが見られ、柱が剪断破壊されたものもいくつか見られるようになった。郡山と福島では地質地盤の構成がだいぶ違い同じ地震を受けながらも建物に及ぼす被害の差がだいぶ現れたような気がする。元々郡山市内は、沼地や湿地帯であり人が多く暮らせるような地盤ではなかった事を、以前郡山市内に建築の設計を行ったときに調べる機会があった。近代に入ってから建築技術の向上によって現在の発展した郡山の市街地形成になっている。今回の地震では地盤が軟らかかったことが福島市内とは違った震災の影響結果となったのだろう。
 仙台市内に入る手前から新幹線のスピードはかなりゆっくりとなった。福島からの途中も含めかなりの民家の被災状況を見る事となったが、大きなビルへの大きな影響は遠目には感じられなかった。仙台駅のホームに降り立つと多くのメディアで取り上げられていた天井の落下を知る事となる。現在は天井を全て撤去して構造的補助材のみが残されている。
 友人との待ち合わせのためヨドバシカメラマルチメディア仙台店に入ってみる。消費活動は、かなり活発である事を感じた。やはり被災した方々の生活用品がかなり買われているようだ。駅を出て市内を回り始める。車道と歩道・敷地境界部分に歪みや段差・ひび割れがかなり見つかる。仙台駅の南東エリア南西エリアはかなり地震の影響を受けているようだ。建物が、若干斜めになっているような気がする物件もあった。市内中心部には、立ち入り禁止の黄色いテープが入り口付近を囲っているものもある。大きな公共要素の高い施設やホテルにもメッシュの養生が張られており、タイルや外壁の落下防止を行っている物件が数多く見られる。腰壁や窓周りには、簡単な補修ではすまないようなひび割れが深く入っており揺れ方のすごさが感じ取られる。中心部は建物だけでなく、道路の補修もかなりの範囲で行われている。 
 今回の東日本大震災では、仙台において築40年前くらいの重厚な構造の鉄筋コンクリート造の建物が大きなダメージを多く受けている。特に目立っていたのは、半官半民のような企業のタイル張りの建物にダメージを見つける事が出来た。知人のオフィスビルに入ってみた。昭和56年以前の建物にしては、外壁でのクラックは比較的少なかった。しかしながら、内部の耐力壁には数多くの細かいクラックが見られる。階段室では、水平部分の打ち接ぎ部にクラックが多く見られた。意外と古い建物に被害は少なかった。新しい建築物においても、誘発目地や構造スリットが施工されていないものに多くの被害が出ている。また、平面形状の不整形なものや構造躯体の重そうな建物は被害が大きい。
仙台市内中心部の建物の中でも打ち継ぎ水平目地や誘発目地の施工されていない建物には、クラックが必ずといって良いほど発生している。また、横連窓の開口部が一面全体に配置されている建物の柱部分には、x印のクラックが発生している事例が多い。更には、大きな外壁面に上から下まで縦に一連で開口部が続く周辺部にも多くクラックが発生している。



  鉄骨造の建物に関しては、建物の一方向のみに大きな開口部が集中したものに関してはガラスが崩壊し跡形もない状況が多い。郊外において、大きなガラスのショウルームが大きな被害を受けていた。特にバイパス沿いの盛り土の上に作った施設は、たいがい建物と地盤に修復不可能な被害が見られる。畑や田んぼの上に道路のレベルにあわせるために盛り土した造成の物件は、ほとんどが何らかの被害が出ている。郊外型の商業施設は、多くダメージを受けている。その中でも低コスト重視の大型家具店やホームセンターの建物は、高い比率で大きなダメージを受けている。



 
 マンションにおいては、外壁より外廊下側についている雑壁と呼ばれる1メートル程度の壁にX型のクラックが多く見られ窓 周りで四方に向けクラックが発生しているものが多かった。ピロティー形式で一階部分に駐車場を配置している物件は、多くのの被害を受けている。最悪なの は、一階ピロティーの端にエントランス部分があり変芯した配置のバランスの悪いプランで、バルコニーの先端に逆梁構造になっているケースである。柱と梁の 接合部および耐震壁に多くのダメージが見られる。また、住戸の隣接戸境壁には確認しにくいがビニールクロスやボードの下地コンクリート壁にクラックが多く 発生しているようだ。保険会社の方々が査定する現状と建築的な立場での査定は、大きな乖離があるようだ。木造建築の被害査定には、半壊以上が多いがRC・ S・SRC造の建物はほとんどが一部損壊である。しかしながら多くのものは大きな構造的ダメージを受け構造的回復を求めるためには大きな改修工事を伴う事 が予測される。


 一般の戸建て住宅に関しては、外見上の被害は少ない。多くのものが、サイディングを張った外壁のためである。屋根に重い瓦葺きを採用したものは、地盤の状態により被害の度合いが大きく違う。また40年前くらいに造成した住宅地は、搬出土の数量を押さえるために、切り土した隣接部に盛り土をして平坦な造成宅地を造っている。このため一軒の家で盛り土部分が下がり、家やブロック塀が傾く現象が多く見られる。この周辺に建てられたテナントビルや単独店舗には、さらに深刻なダメージや現象が出ている。 
 黄色のテープが張り巡らされたビルや建物は、全壊として扱われ、取り壊す決心がつきやすい。しかしながら、中途半端に傾いたり、部分的に外壁がはがれ落ちた家は、半壊や一部損壊として扱われ、今後の対応に悩むところが多い。主要な構造部材や床下の基礎部分を詳しく見ずに、業者が改修工事費を提示する事例が多いようだ。現在も生活を続けている立場の弱い住民には、建築の専門家としての建築家の知識と判断そして支援が本当に必要である。



 「家、三匹の子ぶたが間違っていたこと」(田鎖郁男 金谷年展 ダイヤモンド社発行)という本が興味深い。「三匹の子ぶた」が書かれた竜巻やハリケーンの多い地域と違い、地震の多い日本においては、童話の内容が正しくない事を始まりとして日本における住宅の価値を課題点として書かれた本である。ニュージーランドのクライストチャーチ市に起こった地震では、煉瓦造りでかよわい木製の梁の建物での倒壊が目立った。まるで、この地に地震が起こる事など誰も考えてなかった作りである。しかしながら歴史をさかのぼれば、地震対策が必要な場所である事がわかる。一見、歴史ある町並みのように見え、頑丈な石造りのような強いイメージが、重厚で美し以下のように誰の目にも映っていた。実は欧米の人々が移住してきてクライストチャーチの街にヨーロッパの街並を再現したのは、そんなに遠い歴史ではない。(つづく)





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2011年8月21日日曜日

歴史と共に生きる建築空間の役割(その3)

テレビのある番組で、今回の東日本大震災の復興事業について専門家の人達が話していた。ある人は、国が海沿いの低い地盤の土地を全部買い取り公園にする提案をしていた。もう一人の人は、区画整理を行い安全な避難しやすい道を作る提案をしていた。しかしながらどれも具体性に欠けている。最後の一人が、今更ながら住み慣れた町を離れるのは無理であるから、津波に負けない坂と丘のある町を人工的に作る事を提案した。



2009年に日本ショッピングセンター協会のビジネスフェアーで我々は、埋め立て地にコンパクトシティーを作る提案をした。人口地盤部分に自走式立体駐車場を作り丘陵地のような坂のある町を作る提案である。2万坪のまちにマンションと商業施設サービス機能・高齢者住宅など多世代が歩いて暮らせる町の構成だ。人工地盤の上に設けられた道は、24時間誰もが利用出来るものとし道に面した小さな店舗やSOHOは、ロデオドライブやヨーロッパの街並みをイメージしたデザインだ。これが全てを解決するとは思っていないが、一つの手法として場所により使えるものと信じている。

関東大震災の際の震災復興計画は、インフラと住宅整備が中心となって行われた。高度成長期に向かっての震災復興であったため、この手法で大きく復興に役立った。今回の東日本大震災における復興計画には、欠かせないものがある。それはコミュニティーの形成・育成が可能な町の再生計画である。自治体・行政の非常事態に対するリスク回避も含め、コミュニティーを核とした都市計画は、復興計画の重要な一つと考える。

日本の伝統的建築の中でも最も庶民的な民家は、コミュニティー形成の基に建築が行われて技術や伝統の継承を支えてきた。岐阜の白川郷の民家の茅葺き屋根吹き替えには、地元の住民の方々が100人近く集まり一件の屋根の葺き替えに手を貸す。この繰り返しに支えられ集落は今も残る。

私が建築に興味を持ったきっかけも、父の実家の屋根の葺き替えが中学生の時あった事にある。やはり近隣の方々が大勢集まり一人の棟梁を中心に茅葺き屋根を外す作業を始めた。その時の調査に明治大学の建築学科の方々が来られた事で、建築にも大学がある事を初めて知った。残念ながら、父の実家は茅葺き屋根を後半の屋根に葺き替える事になったが、今も山梨県の養蚕業を生活の糧としていた典型的な民家の構造をそのまま残している。

東京オリンピックから大阪万国博覧会までの間、私の家の廻りでは戸建て住宅の建設ラッシュが起こった。毎月のように、地鎮祭と建前の餅巻きが行われ近所の大勢が手伝いにかり出されていた。子供であった我々は、飲み物と食べ物を振る舞われる事にコミュニティーの表れのお祭り騒ぎを実感し楽しんでいた。現在では新築の数も減ったが、近所の人々が集まる新築工事はほとんど見られなくなった。それと同時に近所に誰が引っ越してきたかも分からなくなってしまった。

今回の東日本大震災は、我々に難易度の高い復興計画と共に日本のコミュニティー形成の再構築を課題として与えているような気がする。単純なインフラ整備や防災性の高い施設・設備計画は、確かに必要ではある。しかし、災害を受けた人々に大きな手助けとなるのは、コミュニティーその物である。この整備を基軸とした復興計画が強く望まれる。

改めて、日本人として歴史から「まちづくり」・「建築」を学ぶ必要がある。いま我々が行わなければならないのは、100年・1,000年の歴史の中で自然や風土が教えた事を守りながら次の世代に残す事の出来る開発・建築~「まちづくり」を伝える事である。建物の品質や建設のコンセプトが「人命に大きく関わる事」を教えてくれた今回の大災害からは、開発・建築~「まちづくり」を他人任せにせず、また企業や権力者の金儲けに開発や建築が行われる事実に目を瞑ってきた事を強く反省しなければならない事を学んだはずである。

あるコメンテーターが言っていたが、「科学的試験やスーパーコンピューター計算によって作られた予測値が、大きな指標になる。しかしながら、専門家や国が基準の線を定めた時点で、人は科学的根拠を無視して基準という線に縛られ物作りを行う。」まさに想定とはいい訳に過ぎない気休めの数値の積み重ねである。

だからこそ、行政や一部の顔の見えない専門家のデーターや数値が作り出す基準を信じるだけでは無く、自分自身が自分達のために確実に良い物であると信じた基準の物作りが必要である。1,000年の単位で「まち」を考え、100年の単位で「建物」を考え、10年の単位で「次の基準」を考え絶えず最良の物を作る新しいチャレンジをする必要がある。専門家や地域に根ざした多くの人々のノウハウを生かし考えられる最高品質の物作りが、環境に良く地域を安全にして経済にも活力を与え歴史を作っていくと考える。



最後に、今回の東北・関東大震災にて大きな被害あった関係者の方々や、災害に遭われて大変な状況にある方々へ、謹んでおい見舞い申し上げます。

少しでも早い復興をお祈り申し上げます。(完)

2011年8月16日火曜日

歴史と共に生きる建築空間の役割(その2)


 「都市」は、千年の単位で記憶に残る。「まち」は、百年の単位で記憶に残る。「家」は、個人の生活と共に十年の単位で記憶に残る。この記憶とは、人々の生活から得られた歴史である。大きな災害は、1,000年の単位で起こるものと100年の単位で起こるものそして10年の単位でやってくる変貌がある。人の記憶は、残念ながら10年の単位のようである。今回の東日本大震災は、1,000年の単位と言われている。同じような事が、福岡県西方沖地震として福岡市内を襲った。これまで福岡では、大型の地震はないものとして構造強度を関東などに比べ80%の基準で設計して良い事となっていた。この基準の根拠は、過去に千年の単位で大きな地震が起こらない確率が高い事の結果採用されていたようである。
関東大震災の際に大きな被害を受けなかった建物に、世界的に有名な帝国ホテルがある。設計者はフランク・ロイド・ライトである。彼は、関東地方では、数百年の単位で一般建築に使われてきた関東地方特有の大谷石で建築躯体を作った。周辺の神社や、公共建築が壊れ煉瓦積の建物が完全崩壊する中ほぼ完全な形で帝国ホテルは利用可能な空間として残った。このため近くにあった神社で結婚式を挙げる予定だった人々のため、帝国ホテルの内部空間を挙式会場として提供した。これが現在のホテルウエディングの始まりでもあるようだ。
建築の基準が、何を指標として作られるべきかは難しい問題である。現在の日本における建築基準法昭和56年以降の新耐震基準は、関東大震災クラスの地震が来た際に建物が崩壊しない為の設定となっているが、それ以下の揺れでも大きな被害は発生する。現に、新築に近いマンションの内・外壁にクラックが発生している事例も少なくない。しかしながら、古い建物でも大きな災害を受けても被害が発生しない事例も多くあるのだ。
京都にある三十三間堂は、現在の建築基準法に照らし合わせると長さ100メートルの建物の何処か一ヶ所でエキスパンジョイントを作って大きな揺れに対応出来る構造としなければならない。しかしながら、三十三間堂は750年前に免震構造を取り入れ100メートルの長さの建築を可能としている。
  起こりえないと思われる災害に対してお金と時間を掛けて、次の世代に残せる建築を作る大切さを今回の東日本大震災は、建築の専門家に強く訴えていると私は思う。ドイツにおけるシアター建設の話をしたが、地震や津波・火災・噴火など様々なケースを想定してもきりがない事は確かだ。一つだけ言えるのは、建築の設計時点において、設計する姿勢と自分自身に置き換えて考えた設計を行う事が重要性だと思う。自分か自分の家族が、この建物を利用すると思えばコスト優先・工期優先などと言えないであろう。「自分が考える災害の限度を超えた事態が発生したらその時は自分自身も諦めがつく。」こんな事が、建築基準法に変わる新たな建築基準になるのかもしれない。

  



以前に超高層マンションを実施設計した際、爆弾テロに対しての強度基準や免震構造の採用を検討するかなどの話題が出た。その際に採用した構造設計では、珍しく超高層でありながら鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造でコストの面からハニカムダンパーによる制震構造の採用とした。2001年9.11同時多発テロの際の航空機衝突に対するビルの安全性や阪神大震災からの地震に対する恐怖が建築にも大きく影響をもたらすかと思った。しかしながらバブル崩壊後からリーマンショックと今に至るまで建築を取り巻く経済状況は良くなく建設その物に大きなひずみを与えた。それが耐震偽造や手抜き工事として社会問題にまで至ってしまった。たった10年前の大きな課題を捨て置いて経済を中心に行動してしまう日本は残念な状況だ。

専門知識を持たない一般の人達に、複数の専門家に相談する制度と環境を国や自治体そして建築業界が努力を怠った結果が、悪い状況を生んでいる。

震災復興や経済の立て直しには、開発・建築が大きな要素を持っていると考える。これまで話してきた時間とお金・手間を掛けた建設・開発は、経済を豊かにし可能性を大きく引き出してくれるものと考える。私は、経済学者ではない。しかしながら、私にも分かる論理である。品質の高い・安全性の高い建築を作る。当然長持ちする建物を作る。これによりリスクは高くなるが、長い期間建物を使えるようにする訳だから事業計画における事業採算性を長期期間で考えるようにする。建物オ-ナーは、長期期間で事業計画を組むので一回の返済額が小さくできる。これにより、建物の床賃貸料金が安くなる。更には、若者やサラリーマンが自分のやりたい事を事業化する際に、起業し易くなり経営も楽になる。家賃が安ければ、物販・飲食の単価も安くなり消費意欲が高まってくる。皆さんが喜ぶ内容である。ただ、銀行と国が、気長に優しく国民を見守ってくれる事が必要となる。(つづく)

2011年8月12日金曜日

歴史と共に生きる建築空間の役割(その1)

歴史と共に生きる建築空間の役割
建築の価値観からコミュニティー形成
2011.03.31
株式会社Arch
小俣光一
 建築物の価値観が何であるかは、議論される事がほとんど無い。これまでにマスコミは手抜き工事の住宅や耐震偽造について話題を作ってきたが、不正な行為についてのみ社会的な問題とされ取り上げられてきた。しかしながら何故このような不正が起こるかは、真剣に議論し解決しようとした動きはない。ましてや規制を厳しくすれば解決出来ると、安易な他人任せの解決策を作り上げ、建築行為を難しくさせ日本経済までを停滞させる結果を国が作ってしまった。
 建築業界や政策を真っ向から否定するものでない。自分自身もこれらの業界で長く育ち学んできた。しかしながら建築物や空間に対する考え方が日本とアメリカそしてヨーロッパにおいて、多くの点で違いがある事に数年前から気がつき始めた。このことは建築の歴史や風土においても異なるが、まちづくり・都市計画~法的整備・建築規制そして更には建築材料に対する新規開発や参入におけるまで、改めて日本人が勉強し直す必要があると感じる。
 日本で最も大きな問題であり、かつ誰も触れる事のない課題点が一つある。それは建築を作るための時間・建築が主体の事業的回収期間が短い事である。一つの話ではあるが、ある映画配給会社に以前在籍していた方から聞いた話である。ベルリンにある、ポツダム広場の再開発事業で、映画館の設計打合せでの議論であった実話だ。アメリカのシアター開発者は、「15年で事業回収が出来れば建築は任せる」と発言した。日本のスポンサー企業担当者は、再開発事業である事をベースに半信半疑で開発の方向性決めに迷っていたようだ。


その時、建築の設計を担当したドイツの建築家は、「シアターは100年以上、空間として使えるものでなけれ
ばならない。」と、言い切って設計に専念したとのことだ。これまでに大きな過ちを犯してきた日本を強くこの話の場面に感じた。
 ドイツに限らず、ヨーロッパ各地では、古い建築をリノベーション:別の用途に換え再利用する事例が多い。特に景観保存地区や指定保存建物ではない事例も多い。昨年12月に、リノベーションを得意としているドイツの有名建築家と話をする機会があった。我々と同行した日本のデベロッパーの方が、彼に質問をした。「あなたが考える最も環境を配慮したエコロジカルな建物とは、どんな建物ですか。」これに答えて、その建築家は一言「最も美しい建物を設計し美しく作り上げる事です。」と言った。その理由は、美しければ大切に使うだろうし、長い時を越えても残してもらえる。また、ゆとりのある建築は空間の価値としても自由に別の用途としても再利用可能である事などを説明に加えた。
 私がドイツ研修に行く際によくお世話になるケルン在住の小室氏の事務所ビルは、100年以上の建物である。このビルの地下室にはケルンの町の歴史が刻まれている。数十年ごとにこのビルを襲う地下水位の上昇が地下壁煉瓦積みに跡を残している。だから電気設備の機器はこのレベルより上部に設置されている。各居室には光通信設備が引き込まれておりこの地下室を経由して世界の最新情報がいち早く手に入るようになっている。歴史に逆らわなければ機器を損失する事はないと大家さんは語っているようだ。開口部のガラスも複層になっていて断熱性能の高いものに換えられている。また夏は、涼しい風が通りやすいように中庭側にも開口が必ず設けられており、冬は全てにセントラル暖房が効率よく窓際に設けてあり環境に配慮した快適な空間作りが行われている。古い100年以上たったビルでも現在に通用する住み心地の良い快適空間を提供できることを証明している。
 日本の中にも、このような事例は多くある。京都の町屋ほとんどが、約築150の木造建築である。中には、築300年前の木造建築物も存在している。京都の町の骨格は、1,200年前に作られ、現在の町割りがほぼ完成したのは400年ほど前になる。歴史的な比較をすれば、ロンドンの町も300年前に大きな火災に見舞われ街並み整備の見直し(復興)を行って木造の街並みから現在の石造りのような街並みに整備された。パリやウィーンの町並みは、約150年の歴史である。京都の街並みもヨーロッパの街並みも歴史的にはほぼ同じ歴史をたどっている。これらの町屋は、時代の流れと共に様々な用途の空間として利用されてきた。電気がない時代から使い続けられている町屋は、現在のハイテクIT産業に対応する最先端事業の事務所建築としても利用されているのもがある。また町屋の一階部分が自動車のための駐車場に改築されるなど、更には有名なシェフが経営するレストランに改修される事例まである。
また、古い蔵造りの建物がレストランやバーなどに再利用されている事例が、地方都市にも多い。まちづくりの上で歴史を越えた構造的な余力を持った建物は、昔の人々には想像もつかなかった空間利用として町の歴史の大きく貢献している。
 しかしながら第二次世界大戦後に作られた建物は、寿命が非常に短い。特に戦後仮設住宅を作ってきた訳ではないのだろうが、古い戸建て住宅の中古住宅市場は、他の国に比べ異常に少ない。柱は細く、壁は薄い。冗談半分にある評論家がコメントしていた。頑張って働いて買ったマイホーム、35年ローンを払い終わったら資産価値ゼロ笑うに笑えないブラックジョークである。おまけに、リーマンショック以降、土地の値段も下がり続けている。長年住み続けた住宅には、プランが時代に合わず建築設備も古くなり子供達さえも引継ぎ住もうと言わない。かといって、売ろうと思っても資産価値が低いため、老人ホームに移り住む資金にもならない。
 現状で建築の工事費の考え方は、予算組の段階では曖昧な事が多い。まだ形や機能・デザインも決まっていない段階から、日本においては「***用途の建物は、坪当たり***万円ですね。」とゼネコンや設計事務所が過去のデーターや営業的「感」のみで値踏みする。重ねてクライアントが、「最近では、***万円/坪でできないの?」と、根拠無く交渉が始まってしまう。建物を作る目的や品質のグレード・耐久性・建設コンセプトなどが建物の基本性能と価格を決める大きな要因である事を知らない人達の会話である。工事費を日本で考える相場の2倍掛けたとしても、建物の寿命が3倍あったら品質を上げるために工事費を多く予算化した方が得策であるとは日本では考えにくい。
 これまでの日本の建物においては、品質や耐久性だけの問題ではない。残念ながら今回の東日本大震災における津波被害でも海岸沿いに建てられた戸建て住宅はほとんどが被害に遭って全壊・半壊状態になっている。海の近くに住むに当たって津波を意識しなかった原因は、何であろうか。千年の歴史・百年の歴史に災害の教訓は無かったのだろうか。しかし一方で古い民家や腰壁までコンクリリートで一階部分を補強した店舗併用住宅は、数は分からないが津波にも耐えた事が伝えられている。千年の歴史の中からの教訓を生かしたのだろうか、宮城県の名取町や亘理町の一部の古い集落には、津波の被害には遭遇し周辺の建物が全て流されたにもかかわらず、古くからある建物がその場に残り再建の可能性があるものもある。

宮城県亘理町の友人の自宅
建物の高さを越える津波に遭遇。古くから神社の周辺の建物のみ残る。周辺のあった新しい分譲地には大きな倉庫以外、数十件あった戸建て住宅はほとんど無くなっている

海岸に近い集落の重要な建物は、何故にある高さを越えたところに決められたように昔から建てられているのだろうか。水田の真ん中にありながらも古くから残る民家は、ある程度の高さを保ち大きな木々で囲われ複数の災害から逃れてきたのだろうか。切り立った山並みの中腹にある古い民家は、周辺に地崩れ危険地帯があるにも関われずいまも残っているのだろうか。大きな地震の度に液状化が問われているが何故埋め立て地の超高層マンションに人は住むのだろうか。免震構造のビルは、本当に大丈夫なのだろうか。地盤がずれているのに高層ビルの杭は、今もまっすぐ立っているのだろうか。壁や床に今回の地震でひび割れの入ったビルは、次の大きな地震に耐えられるのだろうか。様々な考えが頭をよぎる。(つづく)

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